Vol.11
INTERVIEW

日本中世の
「政治権力と宗教勢力との関係」を
ひも解く

~鹿児島神宮と鎌倉幕府・朝廷とのつながり

日隈 正守

教育学部 学校教育教員養成課程(社会科教育)教授

政治権力と宗教勢力との関係について研究する日隈正守先生。現代では原則分離されている二者ですが、日本中世ではとても密接に結びついていたようです。「鹿児島大学で授業するからには、地域素材をどんどん拾い上げたい」と話す日隈先生が、鹿児島県内に現存する複数の神社と当時の政治権力との関係性を紐解きます。

プロフィール

日隈 正守

1959年熊本県生まれ。1992年九州大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。1993年10月、鹿児島大学教育学部助教授に就任。論文に「平安中期奄美嶋人西海道諸国侵入事件に関する一考察」(2021年)、「大隅国祢寝院における荘園公領制に関する一考察」(2020年)、「大隅国建久図田帳に関する一考察」(2018年)など。著書(共著)に「鹿児島県の歴史 (第2版)」「新薩摩学 中世薩摩の雄 渋谷氏」。

「政教分離が原則の現代では考えられないことが起きていた」

―先生の研究テーマを教えてください。

政治権力と宗教勢力との関係について研究しています。今は原則として分離されていますが、日本の中世、平安後期から戦国時代には密接な関わりを持っていました。
学生時代に先輩の大学院生から「面白いよ」とすすめられたことをきっかけに興味を持ち、私のライフワークになりました。

―研究ではどのようなことが明らかになったのでしょうか。

例えば、「国一宮(くにいちのみや)」と「国鎮守(くにちんじゅ)」の関係です。
昔は「薩摩国」など地方行政単位を国と呼んでいました。この国の中で一番序列が高い神社が国一宮、そして国の政治を行う国司を宗教的に支える神社が国鎮守。従来国鎮守の神社はイコール国一宮と考えられており、私もそう思っていたのですが、国鎮守と国一宮が異なる地域が複数あることがわかりました。本来の二つは異なるものですが、国鎮守と国一宮を一つの神社が兼ねている国が多い、という理解をした方がいいでしょう。

薩摩国も国鎮守と国一宮が違う国です。薩摩国で国一宮が指定されたのはほかの地域よりも遅い鎌倉後期、蒙古襲来以後。新田八幡宮(薩摩川内市)が国一宮、現在の枚聞(ひらきき)神社(指宿市)が国鎮守だと考えられています。

実はこの二つの神社は、蒙古襲来以後、国一宮の地位をめぐって争っています。もし国一宮と国鎮守がイコールであれば、枚聞神社が薩摩国一宮になるはず。また、この争いが起きているときに、薩摩国守護である島津氏が出した文書には「薩摩国の国一宮はまだ決まっていない」という趣旨のことが記載されています。このことからも、やはり二つは別の存在だったと考えられます。

―政治権力と宗教勢力との関係の研究で、面白いと感じるのはどんな点ですか。

日本古代後期、中世は政治権力が宗教勢力と結びついていて、まさに大隅(国)正八幡宮、現在の鹿児島神宮(霧島市)はまさに政治権力と親密に結びついている状態で、霧島地域は当時、大隅国の政治の中心地でした。

政治権力と宗教勢力が結びつくとどういう事態になるのか、どういったことが起きるのか。第二次世界大戦までの歴史を踏まえて政教分離が原則とされている現代では考えられないことが起きていて、それを調べるのが面白いですね。政教分離を行う意味、重要性も再認識することができます。

鎌倉幕府・朝廷に働きかけ、南大隅の領有権を認めさせた鹿児島神宮

―その時代、鹿児島では宗教と政治が結びついたことにより、どのような事態が起きていたのですか。

平氏に味方したことにより、鎌倉幕府から一度没収された禰寝(ねじめ)院南俣(現在の南大隅町内の旧根占町域、旧佐多町域)の土地の領有権回復を、国一宮である大隅(国)正八幡宮の力で鎌倉幕府に認めさせた事例があります。

まず禰寝院南俣という土地にどういう歴史があるのかお話ししましょう。

禰寝院南俣の領主・禰寝氏は、大宰府の役人・建部氏系統。大隅(国)正八幡宮(現在の鹿児島神宮)や大隅国司と結びついており、禰寝院南俣は大隅(国)正八幡宮の社領となっていました。

一方、禰寝院北俣(旧大根占町域)の領主・禰寝氏は藤原氏系統。そして藤原氏は荘園・島津荘(しまづのしょう)と結びついています。禰寝院南俣は水上交通・南方貿易の重要拠点だったため、島津荘側はなんとかして荘園の領域に入れたいと考え、策略をめぐらします。この時期、藤原摂関家の当主、藤原忠実が島津荘の領域を拡大しようとしていた時期と合致しますから、禰寝院南俣を島津荘域に入れようとする動きの背後には藤原忠実の意図があったと考えられます。

大隅(国)正八幡宮・島津荘両陣営の対立は続きますが、結局、藤原忠実が政治的に失脚したことで、島津荘陣営は領有権争いに一旦敗退。この後の動きが興味深いのです。

その後、建部姓禰寝氏は平氏の家臣になりますが、平安末の内乱で平家は滅亡。建部姓禰寝氏は鎌倉幕府から領地・禰寝院南俣を没収されます。通常は取り上げられて終わりですが、建部姓禰寝氏は宗教勢力・大隅(国)正八幡宮の支援で禰寝院南俣の領有権を取り返そうとします。

大隅(国)正八幡宮としても、強い結びつきを持っていた建部姓禰寝氏の禰寝院南俣が侵害されることになる。島津荘側が禰寝院南俣を領有した場合、敵対関係にある大隅(国)正八幡宮に年貢を納めるかも疑わしい。大隅国の国鎮守・国一宮である大隅(国)正八幡宮は、建部姓禰寝氏の領有権回復のために動くことになります。

まず朝廷や鎌倉幕府とのネットワークを築くために、一度は縁を切っていた有力神社である石清水八幡宮との関係を修復。石清水八幡宮を通じて、建部姓禰寝氏の禰寝院南俣領有を認めるように朝廷や鎌倉幕府に粘り強く働きかけをしていくのです。その結果ついに鎌倉幕府は、建部姓禰寝氏の禰寝院南俣領有権を認めることになりました。

―南大隅にこのような歴史があったとは知りませんでした。史料を読み解いて明らかにしていくのですか。

はい。禰寝文書(もんじょ)や吾妻鏡などを読んでいきます。
ただ、平安時代は文書があまり多くないんですよ。70年余りしかなかった奈良時代には、10000通を超える文書が残っています。鎌倉時代も150年ほどですが30000通以上文書があります。一方平安時代は、400年の歴史がありながら、文書は10000通以下しか残っていません。そのため貴族の日記なども貴重な史料になります。

ここでいう日記は、朝廷で割り当てられて当番を務めた貴族が、将来自分の親せきや友人が同じ当番を割り当てられたときに参考になるように書き残したものです。その役を無事務めることができなければ、政治家として失格の烙印を押されてしまい、自分の出世に影響します。そのため、朝廷での儀式を丹念に記録していたのです。

文書には様々な定義がありますが、一般的には、ある人物が特定の相手に対して自分の意思を伝えるために出すものと定義されています。ちなみに禰寝文書は割と多く残っており、少なくとも数百通、関連する文書をすべて合わせると1000通近くあると言われています。

かつて学んだ歴史は、塗り替わっていることがある

―先生は子供のころから歴史が好きだったのですか。

小学校5~6年生の頃、父が買ってくれた「私たちの歴史」という本を読んで歴史に興味をもちました。その後読んだ『日本の歴史』26巻(中央公論社刊)も大きなきっかけです。熊本市内の伯母の家に全巻そろっていたので、八代から通って読んでいました。系図や地図、写真が豊富に掲載されていてとてもわかりやすく、裏話を含めたエピソードも満載。すっかり歴史が好きになってしまいました。

―公開授業にはどのように臨まれていますか。また社会人受講生への印象はありますか。

鹿児島大学で授業をするからには、鹿児島県域の地域素材をどんどん拾い上げて伝えるべきだと思っています。
2022年度後期の公開授業では、日本中世の政治権力と宗教勢力との関係について考える「日本史演習Ⅱ」と日本古代から中世への移行期の変化について考える「日本古代・中世史概説」を担当し、鹿児島県域の歴史も多く扱いました。

社会人の方は、やはり地域の歴史に関心がある方が受講されることが多いようです。私の質問に答えられずに困っている学生たちにヒントをくださる方もおられて非常にありがたいですし、社会人受講生の方々が熱心に学ぶ姿は、学生たちにとてもいい影響を与えています。受講生の皆さんを見ていると、生涯学習は人間のあるべき姿だと感じます。

―最後に、先生の授業に興味を持たれている方にメッセージをお願いします。

歴史は、かつて学び、信じていた通説が塗り替わっていることがありますから、学び直し甲斐がある分野だと思います。
私の授業は、興味・関心さえあれば予備知識は一切必要ありません。わかりやすく、面白さが伝わるように伝えるのは教員の責務です。できる限り工夫・努力して授業に臨みます。

(インタビュー実施日:2023/2/9)

※撮影のため発声していない状態でマスクを一時的に外しています。

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